【形意名手】心意の祖『姫際可』
姫際可、字を龍峰。生卒約1602年ー1680年、明の万暦30年から清の康熙帝の時代を生きた人物。姫氏族譜によると、姫氏の祖先は山西省洪洞の出身で、明代初期に山西省浦城に移り住んだとされています。乾隆43年に戴龍邦が改版した『心意六合拳』には、姫際可の文章が掲載されており、姫際可が『心意六合拳』を作る重要な基礎となっています。 原文を要約すると、
「私は姫際可、字は龍峰、祖先は浦東諸馮里(山西省浦州尊村、現在は山西省永吉県の一部)に住み、若い頃から詩や本に親しみ、祖先を敬いたいが、幼い頃から詩を学び、先祖を敬いたいと願っていたが、万里の昔から恣意的な徴兵と暴力にさらされた。
13歳のとき、家業がだんだん零細になってきたので、父が武術を習わせるために先生を頼んだ。10年近く武術を学ぶために嵩山で学び、 特に龍壇大槍の秘術が得意だった。 困ったときは武器を扱い、自衛のために槍を持っていることはできるが、大平の日に剣や兵が待ち伏せされたら、不測の事態にどうやって身を守るか、それで南方へ有名な武術家たちを訪ねて回った。 江湖に行き、峨眉山に行き、漢中に行き、秦嶺山脈に行き、そして終南へ行った。 地元に帰れないし、人生に興味がないが、世を捨てようという気にもならなかった。そこで、山を越えて古代の洞窟を探検し、玉柱峰の下に崩れた古寺を見つけ、終南を我が家とすることにした。
廟の壁が脆かったので、風雪に備え、東殿を一人で修理することになった。 深夜、野生動物の鳴き声に起こされ、なかなか寝付けないこともしばしばだった。それで獣を剣で追い回して帰ってきたら、西殿が月で明るく輝いていたので、割れた窓から射し込んだのではないかと疑い、よく見るとさらに怪しく、好奇心に動かされて松明で照らすと、埃に埋もれた剣を見つけた。剣は木箱に入れられており鞘は上品な形で、剣は明るく鋭く、『湯阴岳氏』の四文字が埋め込まれていたが、剣の名前はなかったので、剣は知らないが、人は知っていた。 再び木箱を開けると本があり、『六合拳経』とあった。その本の中には五行の原理、陰陽の枢要な仕組み、起落進退動静虚実の奥妙が記されており、武術の精髄を集めた一冊であった。大変感激し十年の苦心の末に、一冊の本でその原理を学び、あらゆる形に通じるものを学ぶことができた。六合を法とし、五行十形を拳とし、心が意を引き起こし、拳を意の所に向かわせることから、名を「心意六合拳」とした。
岳飛の本の意向を裏切ることになるのではと心配になり、後世に伝えようと決意し、南方を離れて東方に渡り、有名な師匠を訪ねて後継者を探したが、この拳が世に出ると、人々はこれを軽視して、この拳に暴力から身を守る術と体を養う術があることを知るよしもなかった。 心意を中とし、肢を外として、先天の本を含み、性命生死の道、陰陽の母、四象の根、陰陽の創造をつかみ、乾坤の気を逆転させるためのかなめ…その後曹公に会い、その子である継武に託され、十二年で大成した。」
とあります。
また一説には姫龍峰は終南山中の洞窟で鷹と熊が戦うのを見て、それに感悟され拳に取り入れたというはなしもあります。これらは岳武穆拳経の一節であり本当かもしれないし、はたまた擬似的な話かもしれません。しかし、上記の記録が間違いなければ姫際可が形意拳の形式を作ったとするのが妥当であると考えられます。