河北派形意拳

・形意拳概要

 形意拳というのは中国伝統武術の一派であります。八卦掌、太極拳と併せて「内家拳」と呼ばれとても有名です。形意拳は中国武術という宝庫の中の一つで、世界中に幅広く愛好家がいます。

 形意拳というのは一般的に河北の「李洛能」という方が作った流派をさし、現代まで代々受け継がれ、内容はとても豊富になっています。樁法(一定時間同じ姿勢を続ける鍛錬)には三体式、無極式、渾元樁など。套路(型)には五行拳、即ち金の劈拳・水の鑽拳・木の崩拳・火の炮拳・土の横拳が根底にあり、そこから十二形、即ち龍形・虎形・猴形・馬形・鼉形・鶏形・鷂形・燕形・蛇形・駘形・鷹形・熊形があります。他にも五行連環拳、八式拳、鶏形四把拳、十二肱捶、出洞入洞、雑式捶などなど。器械(武器術)には五行刀、五行剣、五行槍、五行棍、連環刀、連環剣、連環槍、連環棍、三合刀、三才剣、龍形剣などなど。

・形意名手

姫際可

 姫際可、字を龍峰。約1602年ー1680年。明の万暦30年から清の康熙帝の時代にかけて活躍したとされています。姫氏族譜によると、姫氏の祖先は山西省洪洞の出身で、明代初期に山西省浦城に移り住んだとされています。 乾隆43年に戴龍邦が改版した『心意六合拳』には、姫際可の文章が掲載されており、姫際可が『心意六合拳』を作る重要な基礎となっています。

  原文を要約すると、「私は姫際可、字は龍峰、祖先は浦東諸馮里(山西省浦州尊村、現在は山西省永吉県の一部)に住み、若い頃から詩や本に親しみ、祖先を敬いたいが為に、幼い頃から詩を学び、先祖を敬いたいと願っていたが、万里の昔から恣意的な徴兵と暴力にさらされた。

 13歳のとき、家業がだんだん零細になってきたので、父が武術を習わせるために先生を頼んだ。10年近く武術を学ぶために嵩山で学び、 特に龍壇大槍の秘術が得意だった。 困ったときは武器を扱い、自衛のために槍を持っていることはできるが、大平の日に剣や兵が待ち伏せされたら、不測の事態にどうやって身を守るか、それで南方へ有名な武術家たちを訪ねて回った。 西湖に行き、峨眉山に行き、漢中に行き、秦嶺山脈に行き、そして終南へ行った。 地元に帰れないし、人生に興味がないが、世を捨てようという気にもならなかった。そこで、山を越えて古代の洞窟を探検し、玉柱峰の下に崩れた古寺を見つけ、終南を我が家とすることにした。

  廟の壁が脆かったので、風雪に備え、東殿を一人で修理することになった。 深夜、野生動物の鳴き声に起こされ、なかなか寝付けないこともしばしばだった。それで獣を剣で追い回して帰ってきたら、西殿が月で明るく輝いていたので、割れた窓から射し込んだのではないかと疑い、よく見るとさらに怪しく、好奇心に動かされて燃料松を照らすと、埃に埋もれた剣を見つけた。剣は木箱に入れられており鞘は上品な形で、剣は明るく鋭く、『湯阴岳氏』の四文字が埋め込まれていたが、剣の名前はなかったので、剣は知らないが、人は知っていた。 再び木箱を開けると本があり、『六合拳経』とあった。その本の中には五行の原理、陰陽の枢要な仕組み、起落進退動静虚実の奥妙が記されており、武術の精髄を集めた一冊であった。

 大変感激し十年の苦心の末に、一冊の本でその原理を学び、あらゆる形に通じるものを学ぶことができた。六合を法とし、五行十形を拳とし、心が意を引き起こし、拳を意の所に向かわせることから、名を心意六合拳とした。岳飛の本の意向を裏切ることになるのではと心配になり、後世に伝えようと決意し、南方を離れて東方に渡り、有名な師匠を訪ねて後継者を探したが、この拳が世に出ると、人々はこれを軽視して、この拳に暴力から身を守る術と体を養う術があることを知るよしもなかった。 心意を中とし、肢を外として、先天の本を含み、性命生死の道、陰陽の母、四象の根、陰陽の創造をつかみ、乾坤の気を逆転させるためのかなめその後曹公に会い、その子である継武に託され、十二年で大成した。」とあります。

 

また一説には姫龍峰は終南山中の洞窟で鷹と熊が戦うのを見て、それに感悟され拳に取り入れたというはなしもあります。これらは岳武穆拳経の一節であり本当かもしれませんし、はたまた擬似的な話かもしれません。しかし、上記の記録が間違いなければ姫際可が(形意拳)の形式を作ったとするのが妥当であると考えられます。

曹継武

 曹瑋、字を継武、約1662年―1722年、清の康熙帝の時代に生きた人物です。12歳の時に姫際可から心意六合拳を伝えられ、12年の歳月を経て大成した。曹継武は康熙癸酉年(1693年)科挙の三元を取得し、康熙40年(1704年)に陝西省靖遠県の福証に任命され、康熙45年には興安の武官に任命される。晩年は引退し現在の地州に隠居し武芸を伝え、後世に『意拳十法摘要』を著し、弟子には後に山西で栄えた戴龍邦、河南で栄えた馬学礼の二人が有名です。

 曹継武の『十法摘要』の結びの章で「姫師から真伝を受けたのは鄭師一人である。鄭師の拳、槍、剣、棍などすべてを修め、姫先生の理論を理解している鄭志だけである。これは、すべての武芸が拳の中から生まれていることを知っているためである。しかし、世の心意六合拳を学ぶ人々のその術は異なっている。真伝を授かっておらず、少しの差が千里の差になり別物となっている。私は幸いなことに私は鄭師の門であり、姫老の伝人である。師姫の伝授を受けるために、鄭智の弟子から学ぶことがでた。したがって、その方法はかなり洗練されたものであり、私はそれを手に入れたのである。十法摘要の内容をあえて世に問うわけではないが、智識の伝統を守り、また後進のために役立てるつもりである。」とこの一説にあります。これは姫際可と曹継武との間に鄭師というもう一代伝人がいたことを示しています。鄭師の資料は載っていませんが、馬琳璋の著書『心意拳真諦』参考までに次のような記述があります。

 「鄭師は姫際可が終南山中で出会った道士で、寺で座って話していると、道士が『今は太平の世ではないが、太平の世になれば南山に馬を放ち、刀槍を藏にしまうだろう。但先生がそれでも街中で大槍を持って歩くのは人目についてしまい、それが原因で厄介ごとを招かないだろうか』。姫際可は『師から授かったものをどうして置いていけようものか』と答えたところ道士は『なぜ捶(拳)にかえないのだ!』と言われ姫師は悟った。それ以来、槍の使い方を捶に変え、六合大槍の原理と架勢(構え)とを合わせ六合捶を作り出した。姫際可は終南山で拳を創って以降、道士に見せ、それを見た道士は気に入り姫際可に自分も習いたいと申し出て、姫師は道士にこの拳を教えた。そして彼は六合拳を一派とし終南派、またの名を『忠派』としたのである。この忠というのは明に忠誠を誓う『反清复明』の考えのもと、一派は拳術の創始者に敬意を表し、心意六合拳の始祖である姫際可に尊敬するとした。そして道士は謙虚に姫際可から六合拳を学び、後に鄭老師と呼ばれるようになった」とあります。

 武術の歴史は口伝や手書きの文章で伝えられることがほとんどで、多くの武術家の自尊心や保守性、本格的な検証の不足から、その本質を見極めることは困難でありました。 形意拳の歴史もこの問題に悩まされています。

 例えば、古い系図では、姫際可が戴龍邦と馬学礼に、戴龍邦が李洛能に継承されることを直系として扱うものが多いですが、実際には生没年を分析するだけでも誤りがあることがわかります。 現代の『中国武術大辞典』によると、姫際可は1602年から1680年、戴龍邦は1713年から1802年、馬学礼は1715年から1790年、李洛能は1808年から1890年の間に生まれ没したとされています。このことから、戴龍邦や馬学礼が直接姫際可から学ぶことはできず、李洛能が姫際可から学ぶこともできなかったことがわかります。

 なぜなら姫際可は彼らの誕生より何年も前に亡くなっているからです。 弟子と師匠が同時期に存在しなかったことを、これまでの武術史研究の見落とし、欠陥として片付けることはできません。ですから、初期の心意拳(形意拳)の系統は、姫龍峰―鄭師―曹継武―戴龍邦、馬学礼で、後に山西と河南に分かれたというのが妥当なところだと考えています。

戴龍邦

 戴龍邦、字を尔雷、生没年は約1714年―1802年、一説には約1720年―1809年、康熙帝の時代から嘉慶帝の時代にかけて生きた人物です。山西省祁県小韓村の村人で、幼いころから武術を好み、家伝の武術も継ぎ、池州の曹継武から心意六合拳を授かり、十年間苦練の末大成し、晋へ帰郷しました。乾隆十五年(1750年)に河南洛陽を通っていた際に、同門の馬学礼に遭遇し、馬学礼の書斎で『心意六合拳・序』を執筆しました。

 一説には戴龍邦は李貞と螳螂拳師の金世魁らからも指導を受けたと言われており、手書きの拳譜にそれは記載されています。ただし戴氏の心意拳には螳螂拳の要素も混ざっており、それは閘勢捶または『螳螂閘勢』とも呼ばれており、それぞれ5趟(套路)あります。また螳螂刀などの器械もあり、現在の形意拳の中にも螳螂拳の技術要素が残っています。例えば雑式捶の中にある風擺荷叶は六合螳螂拳の中の敗歩封、連環拳の進退三崩拳の二つ目の崩拳はもともと退歩横拳で、これは螳螂拳の照面灯と退歩圏捶の姿勢や用法と非常に似ています。勿論これらは推断に過ぎませんが、戴氏心意拳の七小形の中に螳螂形というのは存在します。金世魁とその系譜に関する情報は現在にはなく、これからさらに検証・研究していく必要があります。

 戴氏心意拳は河南で心意拳を広めた馬学礼のものとも違い、また形意拳とも違います。戴氏心意拳の樁法は三体式ではなく、毛猴またの名を『蹲猴勢』といい丹田を斜めに上げ丹田を養います。身法は鶏脚、龍身、熊腰、鷹膀、猴背、虎豹頭が規矩であり、歩法には寸步、虎步、垫步、鶏步、長三步、践步、閃步、退步等々あります。その拳法の内容としては劈崩鑽砲横の五行拳に龍虎蛇猴馬鷹鷂燕鶏熊の十大形があり、戴龍邦の主要な伝人としては息子の戴文亮、甥の戴文雄、娘の戴文英及び郭維漢らがいます。また戴文雄が教えた戴龍邦の再伝弟子には戴良棟、李洛能と子の忠明、忠挙らがいます。なお李洛能は後に戴氏心意拳の基礎から形意拳を確立させます。戴良棟は戴奎とその甥の戴宏勳らに伝え、戴奎は岳蘊憲、馬二中、王歩昌、王映海らに伝えました。その後、伝人がそれぞれ別の弟子を持ち、現在までに約七代にわたり山西省の戴龍邦から伝わった戴氏心意拳は継承されています。

馬学礼

 馬学礼、生没年は約1715年から1790年、康熙帝の時代から乾隆帝の時代にかけて生きた人物。回族で河南省洛陽馬坡村の人でした。

 古い系譜には馬学礼が姫際可から伝えられたという説がありますが、二人の生没年から考えるに、姫際可が世を去ったのが1680年であると仮定するなら馬学礼が生まれる三十年以上前に世を去っており、馬学礼が姫際可から学んだとは考えにくいです。他の説としては鄭師から学んだとする説や、曹継武から学んだとする説もあります。ただし曹継武が世を去ったのを1722年だと仮定し、馬学礼が1715年に生まれたと仮定すると、非現実的ですが生まれてからつきっきりで習ったとしても7年間しかないというのがわかります。これらの疑問は歴史の一部となり、後に検証されることでしょう。

 しかし、姫際可、戴龍邦、馬学礼らは心意六合拳の発展において重要かつ象徴的な人物であり、その功績が没することはないでしょう。

李洛能

 李飛羽、字を洛能、また能然、老能、老農とも呼ばれていました。生没年は約1808年―1890年とされ、清朝の嘉慶帝の時代から、光緒帝の時代に生きた人物。河北深県窦王庄の人で、幼少の頃から武術を練習し、山西祁県に戴氏が心意六合拳に長けていると聞き、野菜栽培をするという名目で派遣され、約1845年に帯技投師をし、戴文雄に拝師し戴家の心意六合拳を学んだが当時李は37歳で、戴家で10年間の厳しい練習を経て大成しました。拳の道において至らぬところはなく、他人とより心の欲する所を妨げられず、尋常にあらず、神妙且つ予測不可能で、すでに究極の境地に達し、見たり聞いたりせずとも知覚し、当時の人々は「神拳李洛能」と呼んでいました。1856年李洛能は心意六合拳を基礎に大胆な革新を行いました。心意六合拳の基礎を発展・拡大させ基本的な站樁法として三体式を、基本的な拳法として劈崩鑽炮横の五行拳を、十形に駘と鼉を増やした十二形を作り出しました。

 李洛能が拳を学び創出したことに関して言えば、外せないのがその師である戴家の伝人戴文雄です。昔の拳譜の中には戴龍邦が李洛能に直接技を伝えたと書かれていることがほとんどですが、李洛能は1803年に生まれなのに対し、戴龍邦は1802年にすでに亡くなっているので李洛能は戴龍邦から直接技を学べません。現代の考証と資料によると、李洛能は戴家心意六合拳の戴龍邦の甥の戴文雄から伝わったと考えるのが妥当だとされています。

 戴文雄、小字を二閭、生没年は約1778年―1873年、真の乾隆帝の時代から同治帝の時代にかけて生きた人物。戴龍邦の弟である戴麟邦の二児。戴氏の「拳を外に伝えてはならない」という家訓を初めて破り、戴家の心意六合拳を李洛能に伝え、これにより戴家の心意六合拳は形式を変化させ形意拳になったのであり、戴文雄こそが心意拳を外に伝えた重要な人物、まさに功労者であるといえましょう。

 李洛能の師伝はその大弟子の「毅斎記念碑」の碑文中にも確認されている。この碑は民国14年7月(1925年)に孫培基が文を作り、武中洲が書き常贊春が写し、車毅斎の弟子である李复貞、王風才、白光普、李発春、刘倹、布学寛ら他15人とその孫弟子50人以上、及び子の兆杰、兆烈、兆俊と孫の輝六らが記念碑を立て、碑中にこのように写しました。「拳術とは中国の絶技であり、少林・内家・外家の区別がある、吾の県では自咸年からこの術は独盛し、李洛能老師は曰く王長楽の弟子、曰く戴文雄の弟子である。戴氏は小字二閭つまり祁県の人で、戴氏の先祖は心意拳を伝えており、それは少林寺の外に伝わった一派を一家で受け継いでいたが、それを家の外の者であった李洛能先生は受け継いだ。李先生は丈孟勁先生の来賓で来ており、それにより車毅斎は拝師を受けることになった…」とあります。これは吴殿科著書の『形意拳大前』の中の記述にある「光道29年(1849年)李洛は太谷の裕福な紳士の孟勁如に招かれ、太谷城内で護院したところ、孟の推薦があり戴文雄の同意のもと車毅斎を弟子にした。李洛能が車毅斎に拳を伝えていたと同時に、車毅斎は孟にも伝えていたので孟勁如が李洛能を来賓として待遇した」という記述と歴史と一致しています。

 李洛能は帰京後、当時の太極拳の名手である楊露禅、八卦掌の名手である董海川とともに京の三大名拳の主導的な人物として数えられます。李洛能の弟子には山西の車毅斎、宋世栄、宋世徳、李广享らと河北の劉奇蘭、郭雲深、張樹徳、賀運亭、劉曉蘭、白西園、李鏡斎と子の李大和らが著名です。その後それぞれの弟子に広く伝え、多く英才を育成したことにより中国全土で形意拳は迅速に発展していき、その多くが名人となり、武術の発展において大きな足跡を残しました。ですので、勿論形意拳を創始したのは李洛能といわれていますが、実際に発展させ完成させたのは李洛能の弟子たちであり、彼らが拳の練習と研究を重ねった結果であり、このような彼らの実戦と研究の結果は私たちが「形意拳」を研究・探求する上で、無尽蔵の歴史的資料の宝庫となっています。

劉奇蘭

 劉奇蘭、生没年は約1819年―1889年で清代の嘉慶帝の時代から光緒帝の時代にかけて活躍した人物です。河北省深県の人で、幼少の頃より武技を修練し、後に李洛能に拝師し形意拳を学び造詣に深く、門戸の隔たりにかかわらず秘伝を守る風潮を打ち破り、各流派同士を繋げ、それぞれの考えを募ることで悪習を取り除き、当時の武術界では先駆者的な存在でした。

劉奇蘭は多種の拳術や器械に精通しており、また文筆家でもあり高貴な生まれで晩年は隠居生活を送りながら、故郷で弟子たちを教えました。劉の性格はおおらかで、拳に対する深い知識を持ち、拳の道理を大変わかりやすく教授しました。

伝授した弟子は多く、啓蒙的に活動し多くの形意拳名家は皆、彼の指導を受けました。息子の劉文華(字を殿琛)は『形意拳術抉微』を表し、その中で劉奇蘭が教える拳技を解説しました。劉奇蘭の弟子には息子の劉錦堂、劉文華、劉栄堂の他に李存義、張占魁、田静杰、秦月如、李毅仲らがおり、皆武術界で有名になった人物です。

車毅斎

 車永宏、字を毅斎、生没年は1833年―1914年とされ清代の道光帝の時代から民国の初期にかけて活躍しました。山西省太谷県桃園堡で生まれ後に賈家堡に移り住みましたが、幼少の頃は家が貧しかったために学校に通えず、裕福な家の車夫として働いていました。その後李洛能に拝師し形意拳を学び、李洛能が山西で教えていた初期の有名な弟子になりました。その拳技は飛びぬけており、炉火純青(完璧な状態)に達していたとされています。

 李洛能が河北省に戻った時、車毅斎を戴文雄に託して学習を続けさせました。戴文雄は生前に乾隆43年に戴龍邦が作成した『心意六合拳』を重訂したものを車毅斎に与えたため、車毅斎は戴氏心意六合拳の真伝を受けました。故に現在の車氏形意拳は形意拳の風格を保持しつつまた戴家拳の特徴を持ち、内容も充実しています。伝承によれば李洛能が河北省に帰った時、伝えられたのは僅かに五行拳、五行連環拳と十二形の半数しかなく、後に河北派形意拳の名家は残りの十二形を学ぶために山西省に赴き続け、車毅斎と深く議論し研究しました。

 李洛能はかつて同じく形意拳の巨匠である郭雲深に「あなたは名声を得ましたが、あなたの二番目の師兄である車師兄と比べるとまだまだ及びません。」と言ったところ、郭は心中不服に思い、師兄と技を比べたいと願いましたが、李は「私が生きている間には行ってはならない。」と言いました。そのため、李洛能が世を去ってから山西に赴き、師兄の車毅斎を探し武芸を比較したという事実があります。郭は納得し車師兄と共に形意拳を研究し、後に功夫はより一層成長し、一代形意拳大師と成りました。郭の後には李太和、李存義、郭殿琛、王俊臣、王福元、孫禄堂などが山西省を訪れています。車毅斎の武功は卓越しており、武術の腕前と高い道徳心を持ち、やがて山西派形意拳の一代宗師と成りました。車毅斎の有名な弟子には、李复貞、樊永慶、李発春、劉倹、布学寬、呂学隆、王風翔、白光普、武杰、孟天錫らがいます。  

宋世栄

 宋世栄、字を約齋、鐿泉あるいは鏡家と呼ばれた。生没年は約1849年―1927年とされ、宛平県(現在の北京市)に生まれ、後に父の宋永禄とともに山西省の太谷に移り住み、時計修理店を営んでいました。幼少の頃の宋は知的で教養があり、本や囲碁を好み、特に拳芸を好んでおり様々な拳術を学びました。その後、弟である宋世徳と共に李洛能老師に拝師し入門、十年間熱心に形意拳を学び修めました。

 宋の五行拳十二形拳それぞれ妙技の域に達し、特に内功の洗髄二経を深く学びその原理を悟り、さらに陰陽五行太極八卦と三教哲学を理解しました。内功四経を通じて自身で深く探求したことで、拳技と融合させることに成功し、形意拳と内功との有機的な結合を起こし、後世に残る貴重な武術財宝となったのです。

 宋世栄は理論を完成させただけでなく、技術にも大きな創意工夫を加え「内功盤根」「十六把」「麟角刀」などの拳や器械の套路を生み出し、形意拳の内容をより充実させたと同時に宋氏形意拳の体系の基礎を築きました。伝人には宋虎臣、宋鉄麟、賈蘊高、任尔琪、王嗣昌、趙守鈺らがいます。

郭雲深

 郭雲深、字を峪生、生没年は約1820年―約1901年とされ、清代の道光帝から光緒帝の時代にかけて活躍した人物です。河北省深県馬庄で生まれ、体格は逞しく性格は剛毅、義侠心があり幼い頃より武芸に親しんでいました。同治帝の最初の年(1862年)李洛能に拝師し門下となり形意拳術を学び、熱心に研究を続ける中で真髄を心得ることででき、三層道理、三歩功夫、三種練法、三層呼吸、三層用法などの練習時の要素をまとめ、極めて緻密な論述をされました。

 郭雲深は直、魯、豫及び東三省を巡りましたが郭に敵う相手はおらず、それ故に「半歩崩拳打天下」と呼ばれました。光緒帝の時代には西陵で教え、六陵の総監にも任命されており、潭崇杰の家で武術教師を務めていました。

 また郭は正定県の府知事の銭錫買の幕賓(幕下に招聘され,機密にあずかる顧問)となり、その息子の銭観堂に武術を教えました。その後郭は、人々を脅かす賊の命を傷つけたとして三年間投獄されました。出獄後は諸国を放浪し最後は北京にたどり着きました。晩年は故郷で隠居生活を送り、70歳でこの世を去りました。郭は生涯を通じて多くの弟子を教えましたが王福元、李奎元(殿英)、銭観堂、許占鰲、劉永奇らが著名な弟子です。

張占魁

張占魁、字を兆東、生没年は約1859年―約1940年で清代の道光帝の時代から中華民国の時代にかけて活躍した人物です。河北省河間県后鴻雁村の人で、最初は少林秘踪拳を学びましたが後に劉奇蘭に拝師し形意拳を学び、また董海川から八卦掌を学びました。そして程廷華、李存義と共に義兄弟の契りを交わしたのは有名な話です。

 1911年、天津にて中華武士会創設に参加。そこで教鞭をとり熱心に教え、義侠心をもって人を助け、仇を討つ如く悪を憎み、秘術を守ることに徹することから神にも匹敵するといわれました。1918年には弟人の韓慕俠、李剣秋らを引き連れ北京中山公園の大会に参加し、ロシア人レスラーを倒したことで新聞に掲載され、一躍その名は全国に轟きました。

 老境に入った後も中国武術の普及に情熱を注ぎ、地方や市町村の小さな規模の大会から全国規模の武術大会の審査や、八卦掌の演武も行いました。張占魁の伝授した形意拳の中には八卦掌の技法が融合しており、形意拳の技法をより豊かにした斬新な体系となりました。

 弟子は多く、著名な方ですと姜容樵、王俊豆、韓慕侠、趙道新、劉錦卿、馬登雲、武銘、姚馥春、魏成海、銭松齢、没稚和、韓云亭らがいます。

耿継善

 耿継善、字を成性、生没年は約1860年―1928年、清代の咸豊帝の時代から中華民国にかけて活躍しました。河北省深県の人で幼少の頃は花拳を学び、その後劉奇蘭に拝師しその門下となり形意拳及び器械を学びました。

 1900年弟子の鄧云峰、劉彩豆と共に北京の地安門大街地区后門橋の西側にある火神廟内で四民武術研究社を設立しました。耿継善の弟子では劉彩臣、鄧云峰、趙徳祥及び子息の耿霞光らが有名です。

孫禄堂

 孫禄堂、字を福全、また人々からは涵齋と呼ばれており生没年は約1860年―1933年、清代の咸豊帝の時代から中華民国にかけて活躍しました。河北省完県東任家瞳村の人で、幼少の頃は李奎垣を師事し同時に形意拳も学び、その後李の師匠である郭雲深に師事。同行を共にし、また程廷華から八卦掌を、郝為真からは太極拳の真伝を受け継ぎました。一方では宋世栄、車毅斎、白西園からの支援もあり、孫氏の武術は完成の域に達し、後に形意拳・八卦掌・太極拳を一つにまとめた孫氏太極拳を創始しました。孫氏は拳学に関する書物「形意拳学」「八卦拳学」「八卦剣学」「太極拳学」「拳意述真」を著作しており、他にも「論拳術内外家之別」「評述形意、八卦、太極之原理」などの著書を残しました。

 清朝末期、孫禄堂は徐世昌に招かれて奉天で内巡捕を務め、その後、大統領府の中尉となり、陸軍少佐の階級を授与されました。1928年南京中国武術館館長の張子江と副館長の李景林に招かれ武当門の教主となり、その後、江蘇中国武術館の館長兼教務も務めました。

 孫禄堂の功夫は凄まじく、武術の理論に関しても精通しており、それにより北京や天津の武術界でもその名は有名になり、「虎頭少保,天下第手」と呼ばれるようになりました。孫には斎公搏、馬承智、陳微明、李玉琳、刘正邦、孫振川、鄭懐賢、朱国楨、曹晏海、李敦素と孫の息子である孫存周と娘の孫剣雲など百名に及ぶ弟子がいました。

李存義

 李存義、字を忠元、生没年は約1847年―1921年で清代の道光帝の時代から民国10年にかけて活躍した人物です。河北省深州小菅村の生まれで、最初は劉奇蘭に拝師し、又董海川から八卦掌を習い、郭雲深からより事細かに指導を受け、程廷華とは友人でありながらも八卦掌を習い、その技量は同輩より大変優れていました。

 彼は寛大さと正義感を持ち合わせており、それにより多くの武術との深い親交があったため、清代の光緒二十六年(1900年)に弟子引いて天津地区の義和団に参加し、八カ国連合軍と抗戦し、手にした一本の刀で勇猛に先陣を切ったことから当時の人々からは「単刀李」と呼ばれていました。宣統三年(1911年)には叶云表と共に中華武士会を設立し、副会長・教務主任を突溜めました。後に江西省の南坪学校へ武術教練として赴き、馬子貞将軍と共に司令部教官としての職務に復帰しました。

 1918年に門人の韓慕俠、李剣秋らと張占魁を率いて北京の六国飯店でロシア人のプロレスラーの康泰尔に勝利し、中国の威信をかけた功績により政府から第一級金メダルが授与れました。

 李存義の弟子には尚云祥、郝恩光、黄柏年、王俊豆、周玉祥、李彩亭、李耀亭、李文亭、李文豹、郭永禄、麻錫广、左振英、傅剑秋、李云山、馬玉堂、趙云龍と李存義の子である李彬堂などなど武術界において有名な方を多く輩出しております。

尚云祥

 尚云祥、字を弄誕、生没年は約1863年―約1937年とされ、山東省楽陵で生まれました。記録によると最初は功力拳を修めましたが、後に形意拳の李志和に敗れ、李存義を師として仰ぎ形意拳を学び、その後に郭雲深から崩拳の極意を授けられたことによりますます精妙な技を身に着けました。過酷な労働のため、数日で靴がすり減ってしまうのですが、靴を買う余裕もなく裸足で練習していたため足の裏が固くなり、「鉄脚羅漢」と呼ばれておりました。

かつて彼は密雲県の神砂手と呼ばれていた馮洛臣を鳥台形で打ち破り、必馬秀と戦った際には喉を突いてきた攻撃を形意の劈槍で槍ごと落とし、また大盗賊の康天心を破りその逮捕に貢献しました。現在の北京にあった汝成榜鏢局で河南少林派の名家を打ち破ったことで、尚云祥と「鉄羅漢」の名は南北の武術界において広く知れ渡りました。

 尚云祥の弟子では斬雲亭、那越臣、許笑羽、李潤如、孫梦雲、陳子江、劉文治、辛健侯、王風章、趙光礼、李文彬らが有名です。

郝恩光

 郝恩光、字を海朋、生没年は約1871年―約1923年とされ、河北省任丘で生まれました。幼い頃から武術を練習し李存義の入室弟子となりました。彼はかつて関東で鏢曲を経営しており、困っている人を助ける寛大で義理堅い人物でした。

 1922年天津武士会の教授に任命され、1914年に日本へ派遣され日本に留学している学生の体育研究の為に派遣され、また東京では形意拳と八卦剣を表演し一挙手一投足に万雷の拍手を浴び学生や日本の教育関係者から高い評価を受け、後に東京の小石川運動場で形意拳を教え、日本に形意拳を広めた最初の人物となりました。

 尚云祥は李存義の大弟子ですが、郝恩光の功夫と拳法は弟子の中でも最も優れていたといわれています。その後兄デイに誘われ、軍の福大隊長となりましたが、東北剿胡子を追っていた際に流れ弾が頭に当たりこの世を去りました。郝はこの世を去る前に「我的拳環没練好!不然,我就躱過子弾了。(私の拳はまだ練りきれていない。もし、練りきれていたのなら、弾を躱すことができただろう。)」と言い残しました。

 郝恩光先生がこの世を去ったのが早かったために、門人は多くありませんでした。有名な方だと李玉琳、駱興武と郝の子である郝家俊らがいます。

・形意拳要論

 これら理論は先人たちが代々受け継いできた理論であり、『形意拳』の中でも最も重要なものです。その我々に伝わる理論というのが「形意」「一气」「两儀」「三体」「四法」「五綱」「六合」「七疾」「七順」「八勢」「八要」「九歌」であります。これらは我々が練習する形意拳の法規であり、散漫とせず、常に己の練功する際の指針とするべきものであります。

形意論

 形とは形象であり、意とは心意である。人とは万物の霊であり、万物の反応を感知する能力があり、これは心が内側にあるが理は物質の周りにあり、物は外にあるが理は心の中にあるからである。意とは、心が原点にあり、これ故に心意は中で、また万物は外で形となり、内外が相感し、一気が流れゆくのである。故に達磨祖師の根源は、拳で気を養うこと、力を益することを旨としており、動作は簡潔であるがその効力は果てしないことから、形意拳と名付けられた。

形意拳一気

 太極の根源は混沌であり、意もなく形もなく、ただその中には一気が含まれており、その気は空間に広がって存在し、至らぬところはあらず、すべての生命の源となっている。その名を「一気」、または「先天真一之気」とも呼ばれている。この「気」から両儀が生まれ、天地が分かれ、陰陽が区別され、こうして人類が誕生した。したがってこの「気」は人間の生命の根源であり、創造の源であり、生死の根源である。人が気を養い、それを保ち失わなければ、即ち長く生きることができるが、気を荒廃させ散漫とすることに従えば、天により死ぬ。形意拳は、後世の人の為の鍛錬であり、陰陽を研究し理解し、進化を生み出し組み合わせ、旋転乾坤(天地をひっくり返すこと)を欲し、先天から後天まで気を維持し、長寿の領域に昇華させるものである。故にこの拳は変化万端、玄妙百出であり、これらを言いまとめると、練気の二文字に他ならない。

 

形意拳両儀

 两仪者,由一气而生,即天地也,亦即阳阳也。独阳则不生,孤阴则不长,阴阳酝酿而万物化生,此天地自然之理也。人生亦一小天地也;凡四体百骸,一举动,无一不可以阴阳分之。阴阳和,则体健而动作顺遂;阴阳乖,则体弱而举动失措。盖阴阳由 “先天真一之气〞而生,然秋养此先天真一之气,而保持不失,亦必先自阴阳调和始,此习形意拳者不可不知两仪者也。如以人体言:肩,阳也,胯,阴也,肩与脾须相合,即阴阳相合也。(肩与胯合,肘与膝合,手与足合,是日外三合。见后形意拳六合。)时,阳也,膝,阴也,肘与膝领相合,即阴阳相合也。手,阳也,足,阴也,手与足领相合,即阴阳相合地。以动作言:伸,阳也,缩,阴也;起,阳地,落,阴也。伸缩自然,起落合度,亦即阴阳相合之谓也。他如阴中有阳,阳中有阴,阴极则生阳,阳极则生阴,错综变化莫可端倪,学者须体会其意而明辦之可也。

 両儀は一気から生まれ、即ち天と地、または陰と陽である。陽が独りであれば何も生まれず、陰が孤りであれば何も育たず、陰と陽を醸すと万物が生まれるという、天地自然の原理である。人の生も小さな天地である。四体(四肢)百骸(多くの骨)、一挙一動これらのすべては陰と陽に分けることができる。陰陽が調和していれば、身体は健康で円滑に動き、陰陽が調和してなければ、身体は病弱で動きは蹉跌してしまうのである。
 陰陽というのは「先天真一之気」から生まれるものだが、この「先天真一之気」を養い、そして維持するためには、まず陰と陽を調和することをはじめとしなければならず、これが形意拳を練習するものとしては知らないでは済まされない両儀である。
 例えば人の体でいうのであれば肩、これは陽であり、胯は陰である。肩と胯が調和していること、つまり陰と陽が調和していることが必要である。(肩は胯と、肘は膝と、手は足と調和しており、これを外三合という。 後述の「形意拳六合」を参照。)肘は陽であり、膝は陰である。肘と膝が調和している、つまり陰と陽も調和しているのである。手は陽であり、脚は陰である。手と足が調和している、つまり陰と陽が調和しているのである。
 動きでいうのであれば、伸は陽であり、縮は陰である。起は陽であり、落は陰である。自然な伸縮、程よい起落、それ即ち「陰陽相合」とも言われている。陽の中に陰があり、陽の中に陰があり、陽極の中に陰があり、陽極の中に陰があるように、すべて表裏一体である。その複雑さや変化を理解するのは容易ではないが、学ぶ者はこの言葉の意味を理解する必要がある。

形意拳三体

 三体者,天地人三才之象也。在拳中为头手足是也。三体又各分,而内外相合头为;在外为头,在内泥丸是也。脊背;在外脊背,在内心是也。腰;在外腰,在内丹田是也。又如肩,肘;手。胯,膝,足。是三之中,又各有三也。此理乃合于六之九数。丹道自虚无生一气,便从一气阴阳,阴阳再合成三体,三体重生万物”,此之也。

 三体とは、天地人「三才」の象(かたち)ある。拳の中で言えば頭、手、足のことである。三体はそれぞれ三節に分かれており、頭であれば頭の内外を合わせるのを根節とし、外に在るのは頭であり、内に在るのは泥丸である。脊背は中節であり、外にあるのは脊背であり、中にあるのは心である。腰は梢節で、外にあるのは腰で、中にあるのは丹田である。手であれば肩は根節で、肘は中節、手は梢節である。足であれば胯は根節、膝は中節、足は梢節である。つまり三節の中に、さらに三節がある。この原理は六芸の九数に則している。(六芸とは儒教経典の一つ『周礼』において地官・保氏に必要とされた六種類の基本教養、五礼・六楽・五射・五馭・六書・九数のことである。)

 

悟真篇には「道自虚无生一气,便从一气阴阳,阴阳再合成三体,三体重生万物(自らの道というのは無から一気が生まれ、一気の流れに付き従うことで引用が産まれ、陰陽を再合成することで三体となり、三体は万物へと生まれ変わり広がる)」とあり、これが三体の謂れである。

形意拳四法

一曰身法,二曰手法,三曰脚法,四曰步法。

身法:不可前栽后仰,不可左斜右歪,往前一直而进,向后一直而退。

手法:其劲在腕,其力在指,转动灵活,开合自如。

脚法:脚起而躜,脚落而翻,不躜不翻,一寸而先。

步法:又有寸步疾步躜步三法寸步者即张身用寸力催通而进,后足一路,前足自进。(不必換步)。疾步者,馬形步也。其要全在后足用力,所谓消息全凭后足蹬也。躜步者,一足放直的进,后足随之。步法除寸疾二步外,鑽步最为普通,在三步中尤称最要者也。

 

一に身法、二に手法、三に脚法、四に歩法である。

身法:前に倒れたり後ろに仰け反ってはならず、左に傾いたり右に歪んだりしてはならず、前へ一直線に進み続け、後ろには一直線に退き続ける。

手法:其の勁は腕にあり、その力は指にあり、轉動霊活(動きが活発)にして、開合自由である。

脚法:脚を上げる際は鑽し、足を下げる際は翻し、鑽も翻もしないのであれば、一寸先をとる。

歩法:歩法には寸歩・疾歩・鑽歩の三法が有り、寸歩とはすなわち体に張りを持たせ、その体を用いて一寸の力を通し進めるのを促し、後ろ脚は前脚を連れ立ち、進める。(必ずしも足を換得る必要はない。)疾歩とは、馬の歩みの形である。その要となるのが後ろ足の力、所謂「消息全凭后足蹬(消息はすべてを後ろ足の蹬に任せる)」である。鑽歩とは、足を一直線に放ち進め、これに後ろ足を随わせる。歩法は寸歩疾歩の二つを除いた、鑽歩が最も一般的であり、三つの歩法の中で最も重要である。

形意拳五綱

劈拳者,五行属金而养肺。其劲顺,则肺气和。夫人以气为主,气和则体自壮也。鑽拳者,五行属水,能补肾。其气之行,如水之曲曲而沆,无微不至也。其气和,则肾足,清气上升,气下降。崩拳者,五行属木,能舒肝,是一气之伸缩也。 其拳顺,则肝平而长精神,强筋骨,壯脑力。砲拳者,五行属火,能养心,是一气之开合,如砲炸裂也。其气和,则心中虚灵,身体舒畅。横拳者,五行属土,能养脾和胃,是一气之团聚也。其形圆,其性实,其气顺,则五行和而百物生焉。劈拳之形似斧,故属金。钻拳之形似电,故属水。崩拳之形似箭,故属木。砲拳之形似砲、故属火。横挙之形似弾、故属土。由相生之理之,劈挙能生鑽拳,钻拳能生崩拳,崩拳能生砲拳,砲拳能生横拳,横拳能生劈拳。由相克之理论之,劈拳能克崩拳,崩拳能克横拳,横拳能克钻拳,钻拳能克砲拳,砲拳能克劈拳。

 劈拳とは、五行の金に属し、肺を養う。その勁が円滑であれば、肺気は調和される。そもそも気は体の主であり、その調和がとれていれば、体は丈夫になる。鑽拳とは、五行の水に属し、腎を補うことができる。その気の流れは、湾曲して流れる水のように、そして動じない。その気の調和がとれていれば、則ち腎が充実し、清い気は増え濁った気は少なくなる。崩拳とは、五行の木に属し、肝を鎮める(のばす)ことができ、一気を伸縮させるものである。その拳が円滑であれば、則ち肝は落ち着き、精神は成長し、筋骨は丈夫になり、脳も強くなる。砲拳とは。五行の火に属し、心を養い、一気を開合させ、大砲のように炸裂させる。その気の調和がとれていれば、則ち心は澄み、体の緊張もとれる。横拳とは、五行の土に属し、脾臓と胃を養い、一気を集結させるものである。その形は丸く、その性質は充実して堅く、その気が円滑であれば、則ち五行が調和し万物が生まれる。劈拳の形は斧に似ているが故に、属性は金である。鑽拳の形は電に似ているが故に、属性は水である。崩拳の形は箭に似ているが故に、属性は木である。砲拳の形は砲に似ているが故に、属性は火である。横拳の形は弾に似ているが故に、土である。五行相生の理論から、劈拳から鑽拳が、鑽拳から崩拳が、崩拳から砲拳が、砲拳から横拳が、横拳から劈拳が生み出されることができるのである。五行相剋の理論から、劈拳は崩拳に、崩拳は横拳に、横拳は鑽拳に、鑽拳は砲拳に、砲拳は劈拳に剋つことができる。

形意拳六合

 形意拳最重要之点,在一合字。动作合,则姿势正而获其益,动作不合,则姿势乖而气力徒劳,不可不知也。所谓合者有六。身无偏倚,(谓不可歪斜)。心平气和,意不他动,动作自然,谓之心与意合,意与气合,气与力合。此内三合也。动作时两手扣劲,两足后跟向外扭劲,是曰手与足合;两肘往下垂劲,两膝往里扣劲,是日肘与膝合;两肩松开抽劲,两胯里根抽劲,是日肩与胯合。此外三合也。总名之曰六合。学者能熟知六合之法,则练习时自能触类旁通,而一举一动,无不合法。盖內三合之外,还须心与眼合,肝与筋合,脾与肉合,肺与身合,腎与骨合;外三合之外,尚須頭与合,手与身合,身与步合也。观此可知形意拳动作之间,无论内外真不有阴阳之分,即莫不寓有互相联合之理,学者当体会政之。

 形意拳の最も重要な要点とは、「合」の字である。動作を合わせていれば、姿勢を正しくすることで益を得られるが、動作を合わせなければ、姿勢は悪くなり気力も無駄にすることを知らなければならない。所謂「合」というのは六つ有る。身無偏倚(歪み斜めになってはいけないという意味)。心を落ち着かせ気を調和させ、心は動かされず、動作は自然で、心と意、意と気、気と力を合わせること、これが内三合である。動作するとき、両手は扣勁、両足の踵は扭勁、これが手と足を合わせるという意味である。両肘を下に向ける垂勁、両ひざを膝側に向ける扣勁、これが肘と膝を合わせるという意味である。両肩を鬆開させる抽勁、両胯を内側に締め固める抽勁、これが肩と胯を合わせるという意味である。これらが外三合である。この外三合と内三合を合わせて「六合」という。学習者は六合の方法を熟知することができていれば、練習時に自ら触类旁通(一を知って他を類推する)ことができ、一挙一動合わなくなることはない。内三合の他に、心と眼、肝と筋、脾と肉、肺と身、腎と骨を合わせる必要がある。外三合の他に、頭と手、手と身、身と歩を合わせる必要がある。これらからわかるように形意拳の動作の中において、内外陰陽の隔てもなく、つまり常に相互的に結合し合っており、学習者は体得しこれに及ぶべきである。

 

形意拳七疾

七疾者,眼要疾,手要疾,脚要疾,意要疾,出要疾,退要疾,身法要疾也。拳者具此七疾,方能完全制。所谓纵横社來,目不及瞬,有如生活虎,令人不可捉摸者,惟恃此耳。

 

・眼要疾:眼心之苗,目察情,达之手心,然后能应敌变化,取成功。譜云:“心,眼”。一盖言心之主宰,均恃眼之疾而移也。

・手要疾:手者,人之羽翼也。凡捍蔽攻,无不之。但交手之道,全恃速,,速者,理之自然。 故俗云:眼明手快,有”。云:“手起箭如落如,追赶月不放松”。亦謂手法敏疾,乘其无而攻之,出其不意而取之,不怕之身大力猛,我能出手如,即能之也。

・脚要疾:脚者,身体之基也。脚立稳则,脚前进则身随之。形意拳中身运力平均,无一偏重,脚,直抢敌人之位,彼自仆。云:“脚打蹂意莫容情,消息全凭后足路,脚踏中门地位,就是神手也防。”又曰:“脚打七分手打三。”由是之,脚之疾更当疾于手之疾也。

・意要疾:意者,体之也,既言眼有察之精,手有拨转之能,脚有行逞之功,然其慢,均惟意之适从,所立意一疾,眼与手脚均得其要。故眼之明察秋毫,意使之也;手出不空回,意使之也;脚之捷,亦意使之捷也。乎此,意之不可不疾可知矣。

・出要疾:夫存乎内者意,乎外者为势,意既疾矣,出更不可不疾也。事当前,必随意生,随机应变,令人迅雷不区掩耳,皇失措,无符之策,方能制。若意甚速。而疾不足以随之,则应对,其必矣。故意相合,成功可洪,意疾势缓,必无疑。技者可不加之意乎。

退要疾:此,乃横往来退反之法也。当进则进竭其力而直前,当退退,其气而回。至退之宜,则须察乎之强弱,强避之,宜以智取,弱攻之,可以力。要在速速退,不使政人得乘其隙,所“高低随横因”者是也。

・身法要疾:形意武中凡五行六合七疾八要等法,皆以身法本。云“身如弩弓拳如箭上法要先上身,手脚到方真"。故身法者。形意拳之本也。膀活胯周身辗转身而,不可前俯后仰,左歪右邪。进则直出,退直落,尤必到内外相合,使其周身团结,上下如一,虽退亦不能破散,庶几不可捉摸,而不得逞,此所以于眼疾手疾等外,而尤乎其身疾也。

 

 七疾とは、眼の疾、手の疾、脚の疾、意の疾、出勢の疾、進退の疾、身法の疾を要することである。拳を習う者は、この七疾を収めることが可能である。所謂「縦横往来」で、目を瞬く隙もなく、生龍活虎(活力にあふれた龍や虎のようである)であり、人はそれを捉えることができず、頼れるのは耳のみである。

・眼求疾:眼というのは心の苗のようなもので、目は敵の動静を察知し、手が心に達すれば、敵の変化に対応することができ、勝つことができる。拳譜には、「心は元帥、眼は先鋒」とあります。つまり心を掌握するのは、眼の移り変わりの速さが頼りであるということ。

・手要疾:手は人の羽翼である。常に防御攻撃において、手を頼りにしないことはない。しかし、戦いの道において、遅速がすべての頼りで、遅い者は負け、速いものは勝つ、これが自然の理である。諺にもあるように、「眼明手快,有。(眼で見て手が早ければ、勝って負けることはない)」のである。拳譜にもあるように「手起箭如落如,追赶月不放松。(起は矢の如く、落は風の如く、意識を抜くことなく風を追い、月を追う。)」。また敏疾に敵の準備が整ってないうちに攻撃をし、敵の不意をとることも重要で、敵の体の強さ激しさを恐れずに、自身が風のように手を出せず、則ち勝つことができる。

・脚要疾:脚は身体の基である。脚が安定すれば身体も安定し、脚が進めば則ち身もついてくる。形意拳の中に於いて、体には自然と均等に力が巡ることで、どこにも偏りがなく、脚が進み身が進み、直接敵の位置の先をとれば、相手は自身の下僕となる。拳譜によれば「脚打意莫容情,消息全凭后足路,脚踏中门地位,就是神手也防。(前足に踏み込む躊躇もなく、その踏み込む意識を指示するのは後ろ足の蹴りであり、脚を相手の真中に踏み出せば、神の手ですら防げない)」とあり、また「脚打七分手打三。(脚が七分の手は三を打つ)」とある。この観点から、脚の疾さというのは手の疾さより疾いはずである。

・意要疾:意は体の帥である。既に言ったように目は敵の動静を察知する能力があり、手には動き変化する能力があり、脚には逞しく行く功があり、しかるにその遅速緊慢が均しく意に則る。所謂意を立てるのが早ければ、眼と手足が均しくその要領を得るということである。故に眼は微細な物事を察知し、手が無駄なく出るのは意を使うからであり、脚が機敏なのも意を機敏に使うからである。これを見るに、則ち意に疾さがないわけがないことがわかる。

・出勢要疾:内に存在するのが意であり、外に現れるのが勢であり、意が既に疾ければ、出勢はさらに速いに違いない。変化する時、必ず意に勢を随わせ、その時々で応変し、敵を迅雷によって掩耳させ、取り乱させることにより、対策をなくさせることが、勝つための方法である。意が非常に疾く変化する場合。それに追随する勢の疾さがなければ、対応が道理に合わず、その敗北は確実なものとなる。もし意と勢が合わせるのであれば、成功するであろうが、もし意が疾く勢が緩ければ、負けるのは疑いもない。技を練習するものは意を加えてはならない。

・進退要疾:この節で論ずるのは、縦横往来進退反側の方法である。前に進む時は、その力が尽きるまで真っ直ぐ前に進み、後退する時は、気を導いて向きを変える。進退を適するためには、則ち相手の強弱を察することが必要である。強ければ避け、知恵を用いるべきであり、弱ければ攻め、力でもって敵を倒すことが可能である。敵にその隙をつけこまれぬよう速く進み早く退くことが重要であり、所謂「高低随横因(いつでも高低を、状況に応じて縦横を変化させる)」とはこれのことである。

・身法要疾:形意拳術の中の五行六合七疾八要などの法は、全て身法を基本としている。拳譜によれば「身如弩弓拳如箭(身は弩弓の如く拳は箭の如く)」「上法要先上身,手脚到方(上法は体に先行し、手と足が一体となって初めて真となる)」とある。故に身法とは、形意拳術の根源である。膀を揺らし胯を動かし身体全体を回転させ、身は横向きにして進み。前に俯くことや後ろに仰け反ること、左右に歪んではならない。入れば直ちに出でて、退けば直ちに離れる、特に心がけるべきは内外を相合させ、それを用いることによって体の隅々を団結させ、上下を一つにまとめ、そうすることで進退が壊れて散ることはできず、則ち捉えられることはできないであろう。だからこそ敵は自由にすることができず、これらの所以において眼の疾さ、手の疾さなどの他に、特に重要なのが身の疾さである。

形意拳七順

肩要催肘,而肘不逆肩。肘要催手,而手不逆肘。手要催指,而指不逆手。腰要催胯,而胯不逆腰。胯要催膝,而膝不逆胯。膝要催足,而足不逆膝。首要催身,而身不逆首。心气稳定,阴阳相合,(凡人四体百骸,伸之则为阳,缩之则为阴。)上下相连,内外如一,此之谓七顺。 

 肩は肘を催し、肘は肩に逆らってはいけない。肘は手を催し、手は肘に逆らってはいけない。手は指を催し、指は手に逆らわない。腰は胯を催し、胯は腰に逆らってはいけない。胯は膝を催し、膝は胯に逆らってはいけない。膝は足を催し、脚は膝に逆らってはいけない。首は身を催し、身は首に逆らってはいけない。心気を落ち着かせ、陰陽相合し、上下を相連させ、内外を一つに合わせること、これが七順である。

形意拳八勢

形意拳之姿勢重要之点有八;一曰頂,二曰提,三曰扣,四曰圆,五曰抱,六曰垂,七横順須知清,八起鑽落翻須文明。顶者,头望上顶,舌公项上顎,手望外顶是也。提者,尾闾上提,(即塌腰)。谷道内提,(使阳气上升督脉)。是也。扣者,胸脯要扣,(开胸顺气,使阴气下降任豚)。手背要扣,脚面要往下扣是也。圆者,脊街要圆,虎口要半圆,胳膊要月芽形,手脱外顶要月 芽形,腿曲连弯要月芽形是也。抱者,丹田要抱,心中要抱,胳膊要抱是也。垂者,气垂丹田,膀尖下垂,时尖下垂是也。橫者,起也。顺者,落也。起者,躜也。落者,翻也。起为横之始,躜为横之终,落为顺之始,翻为顺之终。手起而躜,手落而翻,足起而躜,足落而翻。起是去,落是打,起亦打,落亦打,勿论如何起落躜翻往来,总要肘不离心(​肘不离肋,手不离心),此形意拳之所以注意之姿势也。

 

 形意拳の姿勢には重要な点が八つある。一に頂、二に提、三に扣、四に円、五に抱、六に垂、七は横に順することが清であることを知ること、八は起鑽落翻を文明させることである。頂とは、頭を上の方に、舌の尖端を上顎に、手を上に向けることである。提とは、尾閭(尾骨の末端部)を上に引っ張りあげる(即ち塌腰)、谷道(肛門)を内に引っ張り上げる(陽気を使い督脈を上昇させる)ことである。扣とは、胸部を被せ(胸を開き気を順することで、陰気を使い任脈を下げる)、手の甲を被せ、足の甲を下の方へ被せることである。円とは、背中は丸く、虎口(人差し指と親指の間)は半円に、胳膊(腕)は月芽の形に、手首の外側上部も月芽の形に、脚も月芽の形になるように湾曲させ曲げることである。抱とは、丹田を抱き、心中を抱き、胳膊を抱かせることである。垂とは、気を丹田まで垂らし、肩の尖端を垂らし、肘の尖端を下に垂らすことである。横とは、起である。順とは落である。起とは鑽である。落とは翻である。起することで横は始まり、鑽することで横は終わり、落することで順は始まり、翻すことで順は終わる。手を起すると時は鑽、手を落する時は翻、足を起する時も鑽で、足を落するときは翻する。起とは向かうことであり、落とは打つことであるが、起で打つことも、落で打つこともあり、どんなに起落鑽翻往来しても、必ず肘は肋から、手は心から離れてはいけない。これが形意拳で注意する姿勢の所以である。

形意拳八要

 八要者何?①内要提,②心要并,③意要连,④行要順,⑤梢要齐,⑥心要暇,⑦尖要対,⑧眼要毒也。

内要提:紧撮谷道提其气,使上聚于丹田,复使聚于丹田之气,由背骨而直达于脑顶,周流往返,循环无端,即所谓 “紧撮谷道内中提”也。

心要并:顶心往下,脚心往上,手心往回也。三者所以使气会手一处。盖项心不往下,则上之气不能人于丹田;脚心不往上,则下之气不能收于丹田;手心不往回,则外之气不能缩于丹田。故必三心一並,而气始可归于一也。

意要连:心意气意力意,三者连而为一,即所谓内三合也。此三者以心为谋主,气为元帅,力为将士。盖气不充,则力不足,心虽有谋,亦无所用,故气意练好,而后可以外帅力意,内应心意,而三意之连,尤当以气为先务也。

行要顺:外五行为五拳,即劈崩砲鑽横是也。内五行为五脏,即心肝脾肺肾是也。外五行之五拳,变化应用,各顺其序,则周中规,折中矩,气力之所到,而架勢即随之,架勢交所至,而气力即注之。气力充,则架势为有用,架势练而气力片愈增。故五行要順者,即所以顺气也。

梢要齐:舌要顶,齿要叩,手指脚肚要扣,毛孔要紧也。夫舌顶上嗓,则津液上注,气血流通:两齿紧叩,则气贯于骨髓;手指脚趾内扣,则气注手筋,毛孔紧,则周身之气聚而坚。齐之云者,即每一作勢时,舌之顶,齿之叩,手脚趾之扣,毛孔之紧,一齐如法,为之无先后迟速之分。盖以四者如有一缺点,即气散而力怠,便不足以言技也。

心要暇:练时心中不慌不忙之谓也。夫慌有恐惧之意,忙则有急遽之意,一恐惧则气心馁,一急遽则气必乱,馁乱之时,则手足无所措矣。若平日无练习之功,则内中亏虚,遇事怯缩,临敌未有不恐惧,不急遽者;故心要暇,实与练气相表里也。

尖要对:鼻尖手尖脚尖相对也。夫手尖不对鼻尖,偏于左,则右边顾法空虚,偏于右,则左边顾法空虚。手与脚,脚与鼻不对,其弊亦同。且三者如偏斜过甚,则周身用力不均,必不能团结如一,而气因之散漫。顶心虽往下,而气不易下行;脚心虽往上,而气不易上收;手心虽往回,而气不易内缩此自然之理也。故三尖不对,实与练气有大妨碍也。

眼要毒:谓目光說敏而有威也。毒字即寓有威严疾敏之意,非元气充盈者,不能有此。盖习拳术不外乎练气练力。练力可以健身体,练气可以长精神。工夫深者,能丹田凝聚,五脏舒展,此人之精神必灵活,脑力必充足,两耳口鼻等官,必能各尽其用,而目尤必神彩奕奕,光芒射人,是即所谓毒也。

 

八要とは何か?①内要提,②心要并,③意要连,④行要順,⑤梢要齐,⑥心要暇,⑦尖要対,⑧眼要毒である。

内要提:谷道(肛門)を締めその気を引き上げ、丹田に集めるようにし、また丹田に集めた気を、背骨から直接頭頂に届くようにし、どこにも滞りなく循環・周流を繰り返す、即ちこれが“紧撮谷道内中提(谷道を締め体の内を引き上げる)”である。

心要併:頂心は下に、足心は上に、手の中心は回す。この三つの気を一か所に合わす。頂心を下にしなければ、即ち上からの気を丹田に吸収することができず、足心が上がらなければ下からの気を丹田に集めることができず、手心が回らなければ、外からの気を丹田に集めることができない。故に必ず三心を一つにまとめなければ、気を一つにまとめることができない。

意要連:心と意・気と意・力と意、これら三つが一つになって連なる、即ちこれが内三合である。この三つというのは「心」が謀主、「気」が元帥、「力」が将士のようなものである。気が不十分であれば、即ち力は不足し、心で謀略を決めていても使いこなせず、故に気と意をしっかりと練ることで、後から力と意が率いられ、内から心と意は応じることができる。この三つの意を連ねる上で、「気」というのは優先すべきものである。

行要順:外五行というのは五拳、即ち劈・崩・砲・鑽・横である。内五行というのは五臓、即ち心・肝・脾・肺・腎である。外五行の五拳は各順序で正確に変化しながら、気力が到るように架勢を随わせ、架勢の交わるところに気力を注ぐ。気力を充ちれば、則ち架勢は有用となり、架勢を練習すればするほど、気力は増える。したがって、五行に従うというのは気に従うことでもある。

梢要齐:舌は上に、歯は叩く(嚙合わせる)ことを要し、手・指・脚・肚は丸みを帯びさせ、毛穴は引き締める。舌を上に突っ張ることで、津液(唾液)が沸き、気血が流れる。上下の歯をきつく嚙合わせることで、骨髄を気が貫す。手脚の指を内に扣することで、気は手の筋に注がれ、毛孔は引き締まり、それにより気は周身して(体が)頑丈となる。斉というのは舌を上に突っ張り、歯を叩き(嚙合わせる)、手足の指を内に扣し、毛孔のを引き締めることを一つに斉する(合わせる)ことである。これらの四つのうち一つでもかければ、気はすぐさまに散ってしまい力は抜け、技を用いるにも不足である。

心要暇: 心要暇とは練習時には心中を不慌(恐れず)不忙(忙しくさせず)のことである。この慌というのは怖れることを意味し、忙とは急遽(急激に慌てる)ことを意味し、恐れれば気と心は馁となり(弱くなる)、急遽であれば気は必ず乱となり(乱れる)、馁と乱の状態になった時、則ち手足无所措(慌てふためきなすすべがなくなる)となる。普段より練習し功を積まねば、則ち内部が欠け虚となり、いざというときに臆病となり、対峙した敵に恐れてしまい、急遽しない者はいない。故に、心には暇を要し、実と練気は表里(日向と影)のようなものである。

尖要対:鼻の尖端・手の尖端・脚の尖端が相対することである。その手の尖端と鼻の尖端が対せず、左に傾けば則ち右側が空虚となり、左に傾けば則ち右が空虚となる。手と脚、脚と鼻が対しなければ、その弊害は同じである。この三者が偏りすぎれば体を均等に力が周ることは出来ず、また力を一つにまとめることも出来ず、気が散漫となる。頂心が下に往っても気は下にはいかず、脚心を上に往っても気は上には収まらず、手心を回しても気を内に縮め収めることは出来ず、これが自然の理である。故に三尖相対をしなければ、実と練気において大きな妨げとなる。

眼要毒:眼要毒というのは眼光が俊敏にして威があることである。毒の字には威厳や疾敏という意味があり、元気が満たされていなければこれはできない。拳術を練習することは練気・練力に外ならない。練力は身体を強健にさせ、練気は精神を成長させる。工夫が深ければ、丹田に気は凝集され、五臓を舒展(伸ばす・ほぐす)させ、これが人の精神を必ず霊活にさせ、脳力も必ず充足され、両耳・口・鼻などの機関が最大限機能する。そうして眼は必ず神彩(優れた風采)を奕奕(光り輝く)し、光芒(光のすじ)は人を射る。これすなわち毒なり。

形意拳九歌

身:前俯后仰,其势不劲。左侧右倚,皆身之病。正而似斜,斜而似正。

肩:头欲上顶,肩须下垂。左肩前伸,右肩自遂。身力到手,肩之所为。

肱:左肱前伸,右肱在胁。似曲不曲,似直不直。曲则不远,直则少力。

手:右手在肋,左手齐心。后者微塌,前者力伸。两手皆覆,用力宜均。

指:五指各分,其形似钩。虎口圆开,似刚似柔。力须到指,不可强求。

股:左股在前,右股后撑。似直不直,似弓不弓。虽有支绌,每见鸡行。

足:左足直出,倚侧皆病。右足似斜,前踵对胫。二尺距离,足指扣定。

舌:舌为肉稍,卷则气降。目张发立,丹田愈壮。肌肉如铁,内坚腑脏。

肛:提起肛门,气贯四稍。两腰缭绕,臀部内交。低则势散,故宜稍高。

 

身:前に俯むいたり後ろに仰け反ったりする、その姿勢には勁はない。左や右に傾くのは、全て身の誤りである。正面を向いているようだが斜めであり、斜めに向いているようだが正面を向いている。

肩:頭を上に突き上げ長ければ、肩を下に垂らすべし。左肩が前に伸びれば、右肩も自ずと伸びる。身の力が手に達するのは、肩の所為である。

肱:左肱が前に伸びる時、右の肘は脇(脇腹)にある。その形は曲がっているようで曲がっておらず、真っすぐのようで真っすぐでない。肘が曲がっていると肘は近くなり、真っすぐであれば力は弱くなる。

手:右手は肋にあり、左手は心と一致している。後は微妙に窪み、前には力を伸ばす。両手は全てを覆い、力は均等に用いる。

指:五指それぞれ分かれ、その形は鈎に似る。虎口を丸く開き、剛のようで柔のようである。力は指にまで届けねばならず、無理やりに求めることは出来ない。

股:左股が前にあるとき、右股は後ろを支える。真っすぐのようで真っすぐでなく、弓形のようで弓形でない。たとえ支えがなくとも、鶏が(支えもなしに)歩くのが見えるだろう。

足:左足を真っすぐに出して、傾いてはいけない。右足は斜めに出して、前の踵は脛と対する。両足は二尺の幅をとり、足の指で地面を押さえ安定させる。

舌:舌は肉の稍であり、巻き上げることで気を降ろす。目を張り髪を立てることで、丹田を養い強靭にする。肌肉(筋肉)は鉄のようになり、臓腑は丈夫になる。

肛:肛門を引き上げ、気を四稍に貫き通し。両腰を立ち昇らせ、臀部は内交させる。低ければその勢は散る故に、稍は高めが良い。